ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想@ブッダ・ガヤ

1/20-29 ブッダ・ガヤのダンマボディという瞑想センターにて瞑想リトリートに参加しました。
話さないと他人のことをやや怖い人だと思ってしまいますが、話し始めるとそれは単なる思い込みだっということに気がつきます。今回は、周りがインド人であり、さらに旅行中にはインド人に対してやや苛立ちを感じることもあったので、なおさらそのギャップが大きかったです。終わった後のみんなの笑顔は輝いていて、ぼくもひたすら嬉しくなりました。

瞑想の話ですが、瞑想による進歩というものは、始めた当初は驚きに満ちていますが、次第にそれは気づきにくくなっていきます。人によっては、そこで瞑想をしなくなっていってしまうようです。なぜ一見効果がなくなるように感じるのか。それは始めは大きな変化が、どんどん小さなものに変わっていくからです。当然、それまで感情に任せていたことをやめるだけでも、自分の新たな面に出会うことは容易に想像できるでしょう。
しかし、小さな変化であっても、あるとき段差を飛び上がるように突然目に見える形でハッと現れます。(間違い探しは比較的簡単ですが、写真の一部が徐々に変わっていくクイズのほうが大きな変化であっても難しく感じます。)変化が感じられなかったとしても、瞑想を続けていると、たしかに進歩しているのです。もちろん、これを進歩というのが適切かは分かりませんが、ぼく自身と身の回りの変化も見ていると、ぼくは進歩したと実感します。その段差はひとつのサイクルになっていて、それを繰り返していきます。繰り返すうちに、そのサイクルは長くなっていくように感じますが、思いがけないタイミングでそのときはやってきます。

より実践的には、瞑想をしているとき、いくら慣れていても辛くなるときが度々あります。イライラしたり、体の痛みが出たり、眠くて仕方がなくなるときもあります。しかし、そのまま続けていくと霧が晴れたように、身も心もスッキリします。でも、もしやり方が間違っていたらどんどん悪くなっていきます。しかし、それも少し休憩して落ち着きを取り戻すとやり方が悪かったことは気がつけることが多いです。

瞑想を通して 実践的に学んだことはこのことです。
思い描いた結果というものは、自分が変化した後には(たとえ結果が全く望んだようでなくても)ほとんど意味を持たなくなります。短期的には思い通りにいかなくて悩んだとしても、継続することで想像していた以上の結果をもたらします。
一言にまとめると明らかなことですが、「短期的な結果にこだわらずに、基本に忠実に継続していくことの大切さ」でしょうか。

なにを継続していくかは問題なのでしょうか?それはぼくには分かりません。しかし、少なくともぼくにとって瞑想とはそういう結果を何度ももたらしてくれるものでした。

僧院リトリート@Wat Tam Uwa

12/20-31 タイ北部メーホンソンにある僧院Wat Tam Uwaにて、瞑想修行してきました。
美しい自然の中に調和した僧院で、庭園や池、裏山が素晴らしく、質素な生活でありながら贅沢な時間を過ごしました。
外国人の受け入れを前提としているため、英語での丁寧なガイダンスや、日課や戒律は比較的容易で、修行というよりも、まさにイメージ通りのリトリートをすることができます。
静かな遊歩道を、裸足で歩行しながらの瞑想は穏やかでありながら、適度な緊張感のある集中を味わうことができました。

瞑想における進歩はあるとき、思いがけないタイミングでやってきます。その体験ほど、美しく感動的なことはありません。それは、これまでの体験をまるごと追体験するような感覚であり、大いなるつながりを見出すようなはっとするような経験です。
また機会を見つけては滞在したいと思います。

僧院公式サイト http://watpatamwua.com

尚、訪問に際しては以下のサイトを参考にしました。
http://mainennetaro.blog.fc2.com/blog-entry-503.html

仏教聖地巡礼@インド

12/14-3/5までタイ、インドへ旅に出ます。
なぜ旅に行くのかというと、人生が「思い通りにならない」ということを、改めて実感するため。
ぼくはつい楽な方へ、一見思い通りと思える方向へ進んでいきたくなってしまう。しかし、旅はときに暴力的に思い通りにならない。それが、もっと切実に生きるということと向かい合えると思うから。

初めてのインドは仏教聖地巡礼の旅。インドは正直怖い、空気や街は汚そうだし、パックパッカーのような旅だから面倒なことも多そう。
行きたいと思って行けなかったのは、そんな言い訳で後回しにしてただけだけど、ようやく飛び込む気になった。

初めて東南アジアあたりを旅したとき、つくづく思い通りにならなくて、辛くなって、逃げ出したくなった。でも、あるときもう思い通りにならないのだから、良くても悪くてもどっちでも良いと思えたとき、解放されたような気分になって、景色が変わった衝撃は忘れられない。

インドの仏教聖地に行く意味は、当時のバラモン教文化の凄さを垣間見ることにある。
釈迦ブッダの思想は、当時の思想に対してのカウンターであった。そのカウンターとしての性質はとても重要だと思う。

現代のインドでは、ブッダの思想はヒンドゥー教に影響こそ与えたが、すでに吸収され、そのカウンターとしてのあり方が失われている。それは、どれだけ主流というのが強力かを示している。それに逆らうほどの思想は、その後宗教になり得るだろう。
文化的にも社会的にも、当時の人間の生死観の根幹であったバラモン教を、ひっくり返そうとすることがどれだけのことかを、少しでも体感できたらいい。

キリストは十字架にかけられてしまったが、ブッダは幸運にも世界に受け入れられたのは、なぜだろう。そんなことも考えていきたい。

高島トレイル@滋賀

11/8-12 滋賀県の琵琶湖水源、中央分水嶺に沿った高島トレイルに行ってきた。

全長80キロメートルを4泊5日のテント泊で、スルーハイクを無事踏破。ほとんど人に会わずに独り黙々と山道を歩く。獣道をかき分け、台風の影響で大木が倒れ道を塞ぎ、急斜面を登ったり下りたり。雨や雹、霧、晴れ間に思わず声をあげたり。熊の気配に怯え、鹿の鳴き声になぜか悲しみを感じたり、鳥の声に親しみを見出したり。道にロストして地図と格闘し、水は煮沸か、浄水器で濾過し、明け方のテントは寒く、ときに水滴が凍りつく。ネットも電話も繋がらず、なにもすることのない夕方を過ごし、日中はひたすら歩き続ける5日間。

どっぷりと山に身を置き歩いていると、もちろん実際の問題には対処しつつも、自分がなくなるような感覚に陥る。というより、思考に無駄がなくなる感覚というのが正確なのかも。集中力は増していき、周囲の美しさが際立って感じられるようになる感覚。素晴らしい時間を過ごせた。

ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想@京都

9/16-25 7日間のヴィパッサナー瞑想合宿に参加しました。今回は、サティパッターナスッタという仏教の経典を学びながらの瞑想合宿でした。

瞑想自体は慣れてきたもので、いつも通りきちんとこなしていきました。しかし、あるときその慣れている自分に気づき愕然としました。一体いつから、慣れという、悪く言えば惰性によって瞑想を台無しにしてしまっていたのだろうかと。瞑想には、いつも新鮮な気持ちで、瑞々しいその瞬間を体験することが重要です。いつのまにか、重要なことがすっぽりと抜け落ちて、瞑想もぼんやりとしていたのでした。

瞑想が終わると、参加者同士話ができるようになります。そこで、とても素晴らしい出会いがありました。初めて会ったとは思えないような、お兄ちゃんがいたらこんな人なのかなという印象の人です。その人と話しているうちに、瞑想がぼんやりしていたことと、ぼく自身の暮らしぶりがぼんやりとしていたことにつながっていることに思い至りました。それは、端的に言えば、なにかを決断することから逃げていたということで、生きることを恐れていたとも、自由を放棄していたとも言えます。

そこでぼくはまず、憧れつつもなかなか踏み出せずにいた坊主にすることを決断しました。そして、家に戻り、早速ひとつに結ぶことができるほど長く伸びた髪の毛を刈り上げました。これは小さなことのように見えますが、自意識の強いぼくにとっては恐れを克服するために大きな一歩となりました。

恐れの克服、この挑戦はまだまだ続きそうです。

酵素断食(10日間)@自宅

7/5-14 自宅にて10日間酵素ドリンクで断食を行いました。

梅湯流しというものを見つけてチャレンジしてみましたが、なかなかすごかったです。

※梅湯流しとは、梅干(黒焼きにするとなお良い)8個とお湯2リットル、生野菜(理想的には5種類)を梅湯→生野菜→梅湯→生野菜と交互に食べていき、一気にお腹を下して、腸内にあるものを出し切るというもの(詳細はネットにいろいろあります)

今回、断食していて実感したのは食事がどんな役割を持っているかということ。それは身体を作るためだけではなく、感情を満たすことや、退屈を埋めることも大きな役割。さらに、今回とても感じたことは、食事は生活のリズムを決める上でもとても重要だということ。食事をしないと、規則正しい生活が難しくなる。

ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想@京都

5/23-6/3 10日間のヴィパッサナー瞑想合宿に参加しました。

場所は京都の瞑想センターにて。

4度目の参加でしたが、相変わらず心の奥底から揺り動かされ、身体の快・不快、痛み、感情の揺れ、気分の浮き沈みの中で、苦心しながらも意識の浄化をすすめられたと思います。

相変わらず、このプログラムは良く出来ていると体験者の方々と話をして感心します。

また、ボランティアや寄付で運営されていることも驚きです。

奉仕者としても、リトリートへもまた参加するつもりです。