仏教における論考の混乱について

仏教の教え、とくにここでは原始仏教上座部仏教テーラワーダ仏教と呼ばれるもの)について、書籍やネット上の論考がなぜこんなにも混乱しているのかを考えてみた。

仏教の教えがどのようなものであるかについて考えるときに、前提となるのは、その教えが誰に向けて説かれたものかということ。
大きく分けると、世間つまり在家信者や社会の中で生きる人々と、出世間つまり出家者の2つに分けられる。さらには、出世間でも、修行者と修行完成者(聖者)にも分かれている。世間であっても出世間であっても、修行者向けにはそれほど明確な区別なく説かれている場合もある。
世間に対して説かれている教えの根幹は非常にシンプルで、「悪いことをせず、善いことをしよう」というもの。よく言われているような「無常」がどうとか、「無我」がどうとかは、ここではそれほど重要でない。「業(カルマ)」については、「善いことをすれば楽な結果が得られ、悪いことをすれば苦しい結果がやってくる」という程度にしか必要ではない。
そして、出世間に対しての教えは、非常に精密で、ある事象から、その構成要素をひとつひとつ分別し、その複雑な関係性(縁起)を確かめていくことによって、理解しようとするもの。それらのどこを確かめても普遍的にある、真理としての無常・苦・無我・不浄ということが大きな意味を持ってくる。さらに聖者の流れに達すると、概念的な教えから、真実つまり文章に残すことができない真理へと変わっていき、教えの大きな転換がある。

ブッダの言葉の中でもあるように、出世間的な教えは世間に反している。そのため、きちんと分けて考えないと矛盾してしまうことがある。

もうひとつ重要なことは、言葉の定義の問題で、原文とされているパーリ語のお経では、ひとつひとつの要素や関係性について分別しきちんと定義を行なっているが、翻訳などをする際にこれらが曖昧になってしまうという問題がある。
例えば、「自我が存在するのか?」という問いに対して、「自我とはなにか?」と「存在とはなにか?」という問題があるが、それらを当時のインドにおける自我と存在の定義、もしくは教えの中の定義に照らし合わせて見なければいけない。さらに、仏教の教えとしてそれは重要(つまり目的のために必要がでない)なことではないのでどっちでもよいとされていることや、考えても仕方がないとされているものもあって、誤解をまねきやすい。

仏教の教えは、なんのための教えで、どこまでを説明しているかを明確にしていて、その枠の中できちんと分別(分析)し、それらを確かめる方法を提示している。

仏教はすべての現象を説明しようとするものでもないし、その人の目的や段階によって必要な範囲が決まるものだということを確認しておく必要がある。
それは教えを学ぶ人が、なぜ学ぶのか、そしてどんな目的を果たしたいのかによって、見え方が異なるということについて、よく気をつけておかなけれなばならない。

またその教えを紹介するときには、誰に、なんのために公開することをよく考えておかなければならない。
もしそれが現代の社会人向けであるならば、はっきり言って仏教の教えがどうとかは関係なくて、ただ過去の賢人の教えとして理解しておくのが良いかと思う。