本「完全教祖マニュアル」

ぼくは時代を経て検証された伝統というものを重要視しているので、新興宗教には興味がないけれど、「完全教祖マニュアル」読んでみた。
このタイトルに、眉をひそめるような内容なのかもしれないけど、とても笑える。
しかし、宗教についての重要な側面を明確に示しているという意味では、中身の薄い宗教についての概論の本などよりもよほど価値があるように思う。
その側面としてぼくの印象に残ったことは以下の二つ。
・宗教の社会性(始まりは反社会的な思想で、広まってくると社会への迎合が前面に出てくる)。
この宗教の二重の社会性が、宗教が分かりにくいものになっているように思う。
・義務と信仰。
ここにも二重の意味での信仰がある。それはあらゆる意味での対価を前提とした信仰か、なにも前提としない、それは疑いという概念をも超えた信仰かどうか。
しかしながら、やはりこれらは宗教のある一面に過ぎないということはもう一度言っておきたい。
その一面とは、人々の求めに応じてつくられるものだということ。それは宗教として運営する上では重要だが、宗教が内在する(適当な言葉が見つからないが)宗教であるがゆえにその本来の意義が成り立たないような、矛盾を示している。
そもそも宗教という言葉は意味が広いので、ぼく自身きちんと理解できてないのだろう。だから、表現するのも難しい。

仏教における論考の混乱について

仏教の教え、とくにここでは原始仏教上座部仏教テーラワーダ仏教と呼ばれるもの)について、書籍やネット上の論考がなぜこんなにも混乱しているのかを考えてみた。

仏教の教えがどのようなものであるかについて考えるときに、前提となるのは、その教えが誰に向けて説かれたものかということ。
大きく分けると、世間つまり在家信者や社会の中で生きる人々と、出世間つまり出家者の2つに分けられる。さらには、出世間でも、修行者と修行完成者(聖者)にも分かれている。世間であっても出世間であっても、修行者向けにはそれほど明確な区別なく説かれている場合もある。
世間に対して説かれている教えの根幹は非常にシンプルで、「悪いことをせず、善いことをしよう」というもの。よく言われているような「無常」がどうとか、「無我」がどうとかは、ここではそれほど重要でない。「業(カルマ)」については、「善いことをすれば楽な結果が得られ、悪いことをすれば苦しい結果がやってくる」という程度にしか必要ではない。
そして、出世間に対しての教えは、非常に精密で、ある事象から、その構成要素をひとつひとつ分別し、その複雑な関係性(縁起)を確かめていくことによって、理解しようとするもの。それらのどこを確かめても普遍的にある、真理としての無常・苦・無我・不浄ということが大きな意味を持ってくる。さらに聖者の流れに達すると、概念的な教えから、真実つまり文章に残すことができない真理へと変わっていき、教えの大きな転換がある。

ブッダの言葉の中でもあるように、出世間的な教えは世間に反している。そのため、きちんと分けて考えないと矛盾してしまうことがある。

もうひとつ重要なことは、言葉の定義の問題で、原文とされているパーリ語のお経では、ひとつひとつの要素や関係性について分別しきちんと定義を行なっているが、翻訳などをする際にこれらが曖昧になってしまうという問題がある。
例えば、「自我が存在するのか?」という問いに対して、「自我とはなにか?」と「存在とはなにか?」という問題があるが、それらを当時のインドにおける自我と存在の定義、もしくは教えの中の定義に照らし合わせて見なければいけない。さらに、仏教の教えとしてそれは重要(つまり目的のために必要がでない)なことではないのでどっちでもよいとされていることや、考えても仕方がないとされているものもあって、誤解をまねきやすい。

仏教の教えは、なんのための教えで、どこまでを説明しているかを明確にしていて、その枠の中できちんと分別(分析)し、それらを確かめる方法を提示している。

仏教はすべての現象を説明しようとするものでもないし、その人の目的や段階によって必要な範囲が決まるものだということを確認しておく必要がある。
それは教えを学ぶ人が、なぜ学ぶのか、そしてどんな目的を果たしたいのかによって、見え方が異なるということについて、よく気をつけておかなけれなばならない。

またその教えを紹介するときには、誰に、なんのために公開することをよく考えておかなければならない。
もしそれが現代の社会人向けであるならば、はっきり言って仏教の教えがどうとかは関係なくて、ただ過去の賢人の教えとして理解しておくのが良いかと思う。

なにもしないでバランスを取る

知人から整体師の先生を紹介していただいて、診断と施術を受けてきた。
ぼくは骨盤、背骨が一見して分かるほど歪んでいた。そこでどのように歪んでいるか、その理由として考えられるもの、その対策などいろいろ教えてもらって気づいたことがある。

身体というのは、無意識にバランスを取っているということ。
疲労や外からの力に対して、意識できないほど微妙な姿勢の変化やいろいろな筋肉を使って、最適化を図っている。
そのため、バランスを取ろうとする意図はかえって邪魔になってしまう。

ついあれこれ試行錯誤して、楽な姿勢や良い姿勢に正そうとしてしまうが、それで余計に歪にしてしまう。
原因を探るのではなく、結果を受け入れることがシンプルにすることなんだろう。
バランスを取るためには、余分な力みをなくし、すべて身に任せてしまえばいい。

しかし、忘れてはいけないのは、方向づけは何度でも意識すること。
身体は動かさないと滞ってしまう。しかし、動かすとどうしても左右の違いや、その動作の目的によって歪みは生ずる。
なにも意識せずに楽しているだけだと、あちこちとフラフラして混乱してしまう。
だから、バランスを取ることの意志を持つことは必ず必要。

目的地を設定して、あとは自動操縦させる。
主導権を身体に明け渡すと、身体の声を聞きやすい。
それが身体の適切な使い方なのだろう。それは心の使い方、瞑想でも同じように。

たまの不節制

いつも食事についてはよく気をつけている。
これまでマクロビオティックヴィーガン、ケトジェニック(糖質制限)、ファスティング(半断食や断食)などいろいろ試している。
アーユルヴェーダも興味深い。

現在は、基本的にはマクロビオティックを参考にゆるいベジタリアンにして、食事は午前中のみ(半断食)にしている。

しかし、たまに不節制してしまうことがある。
そんなときはよく身体を観察してみると、普段との違いから気づきが多く、たまには悪くはないとすら思う。
続けること、やめてもいいこと、新しく始めることをリコンディショニングする。
まぁ、ただの言い訳です。

でも、なんとなく分かってきたのは、夜エネルギーが足りなっているかもしれないこと。
寝てる間のエネルギーをケミカル(アミノバイタル)を使って補給してみよう。

それと、チベット体操すごくいいのでおすすめ。きちんと身体の強度と柔軟性を高めてくれる。瞑想の感覚も良い。

集中力を鍛えるコツ

集中力を鍛えるためには、意志の力を鍛えることが効果的らしい。
たしかに実感として、意識をなにかに向けるときに、集中力がないと他のものに流されてしまうのは、意志や意欲が関係していることは分かる。意欲は思って出てくるものではないが、意志は自分次第。

そして、意志の力を鍛える良い方法は、とくにその初期においては苦手なことをするのが一番だと思う。

思いついたぼくの苦手克服リストは以下。

・午後食事をしない(会食を除く)
腹8分目はいつまで経ってもうまくできないので、潔く仏教の戒律に従って別の目標を立てた。そうすると、お菓子(糖類)を食べる機会も減らすことができる。

・水シャワー

毎回、躊躇しながらも一線を越える感覚で浴びている。

・基礎的な訓練を毎日必ず行う
今までやり続けられたことがないので、効果や意味など考えずにひたすら頑固に継続する。内容は師の教えに従う。

・その他
朝4時起床、インターネットは決められた時間のみ

 

慣れて、苦なくできるようになったら効果をレビューして、またリストを再考しよう。